What’s 滝山城?

はじめに


滝山城は、大部分が都立滝山公園になっており、春は桜の名所としても有名です。しかし、滝山城の最大の魅力ともいえる保存状態の良好な空堀・土塁・馬出などの遺構の数々をご覧いただくには、葉が落ちた晩秋から初春にかけてが最も適しており、イベントが開催される時季は、名城の面影を偲ぶうえで正にベストシーズンといえます。

複雑な地形が巧みに活かされた縄張りを持つ滝山城は、中世城郭の最高傑作ともいわれており、その文化財としての価値の高さから、昭和26年に国指定史跡に指定されています。近年では、平成29年に続日本100名城にも選定され、歴史的な魅力の深さが再評価されています。また、令和3年(2021)に、築城500年の節目を迎えます。

滝山城について

滝山城はもともと大石氏の居城で、大永元年(1521)に大石定重によって築かれ、高月城から移転したと伝えられています。その後、大石定久の養子として入城した北条氏照が八王子城に移転するまで、関東屈指の城郭としてその威容を誇りました。

地形について

滝山城は、多摩川の浸食によって形成された加住丘陵の複雑な地形と、急峻な断崖を利用して築かれた天然の要塞です。多摩川を望む標高約160メートルの丘陵上に、東西約900メートルにも及ぶ広さで築かれています。

大石氏と北条氏照

武蔵国の守護代であった大石氏は、大石定重のときに北条氏康の支配下に入りました。その後、氏康の子である氏照を養子に迎え、滝山城は大石氏から氏照の居城へと代わります。

滝山城の攻防

天文23年(1554)に北条、武田、今川による三国同盟(相甲駿同盟)が結ばれました。

しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が討たれると、急速に今川の勢力は弱まりました。永禄11年(1568)、武田信玄は今川との同盟を破棄すると、駿河に侵攻しました。さらに翌年、今川攻めの行動をともにしなかった北条との同盟を破棄し、北条領へも侵攻を進めます。滝山城も北条領の拠点のひとつとして武田勢から攻撃を受け、戦場となりました。二の丸門まで肉迫されましたが、北条勢の奮戦により武田勢は追走したといわれます。

その後、武田勢は小田原攻めを敢行しますが、難攻不落の小田原城は落とすことはできず、甲州へと引き上げます。その帰路で、三増(みませ)峠(現在の神奈川県愛甲郡愛川町)で北条氏照・氏邦勢と合戦になりました。

八王子城への移転

戦国時代も終わりに近づくにつれ、豊臣秀吉による天下統一の機運が高まりをみせます。秀吉に対抗するため、氏照は天正10年(1582)頃から新たに八王子城の築城を開始し、天正15年(1587)頃までに滝山城から拠点を移していきました。

北条氏の最期

秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)に前田利家・上杉景勝軍に侵攻され八王子城は落城します。この八王子城落城が決め手となり、本拠の小田原城は開城。氏照は、このとき小田原に籠城中で、兄の氏政とともに切腹し、北条氏は滅亡しました。